印傳屋 / INDEN-YA

月を待ち、自然を想う。-月を観る日本の文化を想う-

印傳屋では1989年より、「十五夜」を未来へ残したい大切な文化と捉え、メッセージをお届けしてまいりました。
自然の移ろいに心を動かされ、祈りや願いを込めて育まれてきた、この国の季節の習わし。
鹿革に漆で自然の模様を描き出す印伝もまた、そうした先人の想いや自然への感謝から生まれた伝統工芸です。
月見をはじめとする日本独自の文化を後世に伝えたいという願いから、私たちは公式ホームページや新聞広告などを通じて、その心を広く発信し続けています。

 

神代の時代から、今も、ともに。

「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」とあるように、むかしから月といえば中秋の十五夜を指しました。
煌々と輝く照明もない時代ですから、ふだんの月は現代より明るく、秋の満月ともなれば、さぞ人々のこころを虜にしたことでしょう。
古くから月の歌は多く詠まれ、奈良時代に編まれた万葉集にはこんな歌が収められています。

「ひさかたの天照る月は神代にか出で反るらむ年は経につつ」

天上に照る月は神代のむかしからずっと変わらず繰り返し出ているのか、
こんなに年を経ているのに、と。
作者未詳とされていますが、万葉の時代から
悠久の時の流れを感じ、その中で変わらずに人々を照らし続ける月に
こころを寄せていたのです。

それから千三百余年。
私たちもそう感慨にひたりながら、月の光を浴びています。
同じものを見ているのですね、むかしも、今も。

 

受け継がれる月見の文化。

旧暦の8月15日は、一年でもっとも美しく輝く中秋の名月とされ、人々を魅了してきました。
月見は奈良時代から平安時代にかけて唐より日本に伝わり、貴族の間で広まったとされています。
その愛でかたは月を見上げるのではなく、
池の水面や盃に映る月の姿を見て、詩歌や管弦に親しんだそうです。
なんとも風流ですね。思えば、「風月」を愉しむといいますが、「風日」とはいわない。
清風には明月。こころ落ち着かせて自然の趣を愉しめるのは、
日よりもやはり月なのだと、あらためて思うのでした。

月見が庶民の間にも広まったのは江戸時代に入ってからといわれています。
中秋は稲が育ち、これから収穫を迎える時期。
十五夜はみなで喜びを分かち合い感謝する初穂祭や収穫祭のような行事でした。
古くから主食のひとつであった里芋がこの時期に獲れることから
お月様には里芋を供え、十五夜は芋名月と呼ばれていました。

月見は十五夜だけでなく、十三夜も必ず見るものとされ、
どちらか一方だけを見る片月見は縁起がよくないといわれていました。
本当の由縁はわかりませんが、秋の美しい月は十五夜だけではありませんから、
月見を両方愉しもうとする風習に、人々は頷いたことでしょう。
江戸の町人たちの中には平安貴族への憧れなのか、隅田川や江戸前に船を浮かべ贅沢な月見を愉しむ人も多かったようです。

ちなみに十三夜は栗名月、豆名月と呼ばれ、食べごろとなる栗や枝豆を供えていましたが、
江戸時代の後期になると団子をこしらえるようになりました。
それは現代に続く愉しみかた。芋名月の名残なのか、地方によってはお供えの団子を
里芋の形にしてつくる風習が今も残っています。

お月見に欠かせない「ススキ」を飾るのにも、大切な理由があります。
十五夜の頃は、地域によってはまだ稲の穂が実る前。
ススキのすらりと伸びた姿が「実りの稲穂」に似ていることから、収穫への感謝を込めて
稲穂の代わりに供えられるようになったと伝えられています。
また、ススキの茎は中が空洞になっていることから神様の「依り代よりしろ」と信じられ、
その鋭い切り口は魔を祓うとされてきました。
そこには、収穫物を災いから守り、翌年の豊作を願う人々の祈りが託されていたのです。

春は桜を見るように、秋は月を見る。
そのときでしか見られない自然の美しさに、むかしも今も、人は情感を抱いてきました。
そのこころこそ、この国の人々に忘れてほしくないもの。
月見の文化がいつまでも日本にあってほしい、そう願うのです。

 


ずっとこの国に残したい文化がある。

1989年 第1回目の新聞広告

この国の人々がこころ動かされたもの。
人の想いや願いによって生まれ、みなが倣ってきた季節ごとの慣習。月見をはじめ、そうしたさまざまな日本の文化を後世に残し伝えるために、印傳屋では公式ホームページや新聞広告などで広く発信しています。
みなさまの日々の暮らしの中で、少しでも日本の文化に思いを馳せたり、たいせつな人と語らい、ともに実践していただけたら幸いです。

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